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後藤田正晴

大正3年徳島生まれ。昭和14年東京大学法学部卒。内務省、自治省を経て、昭和44年警察庁長官。47年内閣官房副長官。51年に衆議院議員に初当選。その後、自治大臣、行政管理庁長官、総務庁長官、内閣官房長官、法務大臣、副総理を歴任。戦中は陸軍大尉だったそうで、高齢にもかかわらず重大事件が発生すると体中に熱い血が煮えたぎるようである。--たっちゃん
:後藤田五訓:
*後藤田五訓とは内閣五室制度発足式典で氏が五室長らに与えた訓示の事を差す。
一、省益を忘れ、国益を想え
二、悪い本当の事実を報告せよ
三、勇気を以て意見具申せよ
四、自分の仕事でないと言う勿れ
五、決定が下ったら従い、命令は実行せよ
カミソリ後藤田の異名を持ち、徹底した能率主義、数十年も官僚を使ってきた人らしい発言である。

1914(大正3)年8月9日徳島生まれ。東大法学部卒。内務省、自治省を経て警察庁長官。田中角栄首相に請われて72年第1次田中内閣の内閣官房副長官(事務担当)。74年参院選挙(徳島地方区)に立候補、田中派と三木派の“三角代理戦争”と呼ばれた自民党同士の熾烈な選挙戦を展開するが落選(後に後藤田氏は自著で「あの選挙は自分の人生の最大の汚点」と書く)。
その後76年衆院議員(徳島全県区)に初当選して以降7回連続当選。衆院議員当選後3年にして第2次大平内閣に入閣し自治大臣・国家公安委員長・北海道開発庁長官(79〜80年)、第1次〜第3次中曽根内閣(82〜87年)の官房長官に派閥を超えて田中派から異例の就任(途中2年間にわたり行政管理庁長官・総務庁長官)、自衛隊の海外派遣に反対するなど中曽根康弘首相の改憲志向にブレーキをかける役割を果たし、このころから自民党「外交ハト派」の中心的な存在になる。
宮沢内閣の法務大臣兼副総理(92〜93年)。96年の総選挙を機に政界を引退したが、その後も憲法改正、自衛隊のイラク派遣など国政の重要問題に発言を続け「政界ご意見番」をつとめている。女優・水野真紀さんと結婚した後藤田正純衆院議員(徳島3区、当選2回)は正晴氏の又甥、つまり正晴氏は正純氏の大叔父に当たる。--補足

一部では後藤田内閣誕生?とも言われたが辞退。本人は「ワシは総理にならんほうがいいんだ。理由は五つある。第一に警察出身者だから国民に与えるイメージが良くない。二に田中角栄に見出してもらい、三に最初の選挙のとき陣営からたくさんの選挙違反者を出している。この三つでダーティイメージになってしまった。四に中曽根に五年仕えたことで、どうしても彼の影が拭えない。五番目は糖尿病だ。ワシは総大将には向かんのだよ」そう言って伊東正義に総理になってもらえと言ったが伊東氏も「後藤田を口説いて総理にしたら、オレが副総理をやる」と譲らずそうこうするうちに決まった総理大臣は宇野宗祐であった。--たっちゃん

長年、死刑執行に首を縦に振らなかった歴代法相。それを自らの代で終わらせ、死刑執行命令書にサインをした事でも有名。--たっちゃん

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